学童スクール開設への道のり③~学生時代その2、苦しい受験勉強の日々~

学童スクール開設への道のり②

そういう事情があって、高校の進路指導の先生が何と言おうと私には「岩手県立大学」しか選択肢が無かったのです。

そして、そこから私の本気の受験勉強が始まりました。進路指導の先生に「無理だ」と言われたその日から。私は文字通り「必死」の受験勉強をしました。当然、そういう経済状況だったので塾に通うという選択肢はありません(というか、私は中学時代も含めて「塾」に通ったことがありません。加えて勤めたこともありません。そんな中で塾を開校したわけですから、周囲から無謀と言われて当然だったのです(笑)。何とか独学で、自分でやっていかなくてはならないわけです。頼れるのは、私が通っていた高校で、私の進学を本気で応援してくれた2名の先生のみ。はじめ先生とあつこ先生。その2人だけでした(ただ、その後私があまりに必死なので色々と助言をくれる先生は増えていきましたが)。はじめ先生には英語を、あつこ先生には国語全般と小論文の添削をサポートしてもらい、加えて他教科の勉強方法の相談にも本当に親身に応えてくれました。

 
と同時に、環境も変えていきました。とりあえず部屋のテレビは封印。ゲームも封印し、マンガ本も封印。ポケベルも(今と違って携帯やパソコン、タブレットという時代ではありませんでしたので(笑)。ついでにですが。私は受験生にとっては携帯電話、タブレットは百害あって一利なしだと思っています(親としてはリスク管理、子どもとの連絡手段として有効な面もありますが、あくまで「子どもにとって」という観点での話です。影口、いじめ…SNSはその温床です)。ですから、受験生が「まず」すべきことは、携帯を持っているなら勉強中は絶対に親に預ける。寝るときには部屋に携帯を持ち込まない。こういう厳格なルールを親に設けてもらい、黙ってそれに従うことだと思います。
 
話を戻しますが、私の受験勉強の日々は本当に勉強一色でした。朝6時に起きて、マッハで学校へ。私は電車通学でしたので、その車内でも単語帳やポケット本のようなものをずっと読んでいました。到着後は、私にとって最大のサポーターであったあつこ先生に小論の添削をお願いし、はじめ先生には和訳のチェックを受け、そして教室で自習。で、授業を受けて、放課後の補習を受け、帰宅(当然、この帰りの電車でもできることをやってました)。たまに補習が無いと駅で友人と会い、「ゆーきち、カラオケ行かない?」なんて誘われることもありました。が、「悪い、俺勉強…」と断っているうちに、段々誰も私を誘うことは無くなりました(泣)。おまけに「あいつは頭がおかしくなった」なんて言いだす奴もいましたし…。そして、帰宅後は最低限の「食事」「「風呂」以外の時間は全て勉強です。本当に全て。で、就寝は3時。ですから、部活を引退し、本気の受験勉強を始めてから入試が終わるまでの約9か月間は毎日3時間睡眠で生活していたことになります。

余談ですが…睡眠時間3時間というのはともかくとして、今の私があるのは本当にこの受験勉強があったからです。小学校から高校までの8年間、サッカーに打ち込み、キャプテンや部長も経験し、学んだことは沢山、本当に沢山あります。サッカーを通じて出来た友人も沢山います。でも、私の今に直結しているのは大学入試に懸けたあの9ヵ月間です。苦しくて何度泣いたか分かりません。悔しくて何度泣いたか分かりません。全く運動もせず、勉強ばかりしているので(勉強しているとお腹がすきますし、夜食も普通に食べていたので)体重も10キロ以上太りました。その9ヶ月で。たまに風呂上がりに、そんな自分の体形を見てはまた悲しくなり(笑)、でも小学生の頃に比べればまだマシ!と自分を励まし(私、小学生時代本当にまん丸でしたので(笑)。大して勉強せず進路をどんどん決めて、遊びまくっている友人を見ては悲しくなり、上がらない成績にまた涙し…。

ただ、その9ヶ月を乗り越えられたから…親の支え、温かな励ましがあって。サポーターのあつこ先生とはじめ先生の温かな愛情があって。そうして9ヶ月を乗り越えられたから、私は大抵のことは「全然余裕!」と思える様になりました。そして、塾講師となった今…当時の自分の勉強方法が、あつこ先生とはじめ先生にアドバイスを貰い、試行錯誤し、必至こいてやっていた方法が今キャンパス生に指導している勉強法の全てのベースになっています。本当に良かった…あの時投げ出さなくて(笑)。

続く

※関係ない話のようですが、一応ちゃんと本題に繋がります。前振りが長すぎてすみません<(_ _)>