学童スクール開設への道のり②~学生時代その1、岩手県立大学を目指す~

②学生時代その1~岩手県立大学を目指す~ 
 
話は学生時代に遡りますが…私は岩手県にある岩手県立大学に入学しました。
今でこそ倍率も下がり、かなり入りやすくなったようですが、当時は新設大学2年目、しかも社会福祉学部を備えている公立大学で学長が西澤純潤一氏(ちなみにその前に東北大学総長、県立大学退任後は首都大学東京の学長などを歴任)。
更に、当時としては画期的だった「学内に全学生に1台ずつPCを用意」という画期的な試みもあり、大学としての知名度も高く、倍率もかなり高倍率でした(偏差値で62は必要だったと記憶しています)。
高校時代サッカーに明け暮れ、高校3年時には下から学年10番以内(模試で。定期考査ではそれなりの順位を維持)にいた私は、進路指導の先生に「僕、社会福祉学部に入りたいので岩手県立大学に行きたいです」と伝えました。すると鼻で笑われ、「サッカーの実業団のある会社に行くとか、興味を持ってくれてる大学にサッカーの推薦でいくとか、そっちの方が良いんじゃないの?今の成績じゃあ、無理だろう。」そう言われましたが、私にはどうしても岩手県立大学でないとダメな理由がありました。
 
1つ目は、サッカーは高校で終了と決めていたこと。私には兄が二人いますが、次兄は今でいうジュビロ磐田の前身のチームに所属していました。しかし、Jリーグ開幕を控えたその前年…兄はサッカーでは限界を感じ、静岡から岩手に戻ってきました。私にとって次兄はヒーロー…小学生の時からサッカーを教えられ、練習に付き合わされ付き合ってもらい(笑)、時にはビンタされたこともありました。でも、そんな次兄との練習の日々があったので、小学時代はキーパーだったというのに中学でも高校でも早々に試合に出してもらい、2年時からレギュラーで試合に出場することが出来ました。が…私のヒーロー(=兄)でも通用しない世界…私には無理だ…そう思ったので、競技としてのサッカーは高校で終了と決めました。
 
2つ目は祖父の存在です。今は天国にいる私の祖父は、北海道で「ばん馬」の騎手をしていたそうです(というのも自分ではその姿を見たことが無いので)。北海道の網走に住んでいた祖父ですが、数年に一度、娘(私の母)がいる盛岡に遊びに来てくれたのですが、そんな祖父は私が物心ついた頃には既に足が不自由になっていました。その「ばん馬」のレース中に馬と馬の間に足を挟んでしまい、障がい者になってしまったそうです。そんな祖父が遊びに来てくれた時、足を引きずって歩く姿を見て、入浴を手伝ったりする中で、「自分はじいちゃんみたいに体が不自由なおじいちゃんとかおばあちゃんの役に立つ仕事が向いてるのかな…」なんて思うようになっていました。
 
そして3つ目は経済的な事情です。私の両親は夫婦でラーメン屋さんを営んでいました。お店としてはそれなりにお客さんも来てくれて、「閑古鳥が鳴く店」では無かったのですが、父が自身の親族の金銭問題に巻き込まれ、それからは何とかギリギリのやりくりをしているようでした。そういう事情もあって、私は中学生時代には新聞配達もしてましたし、高校時代も土日だけコンビニでバイトをして、「せめて自分のサッカーの道具、遊び代は自分で何とかしろ」という兄の教えに従って、出来るだけ両親に迷惑を掛けないようにしていました。そういう経済状況の家なので、とてもじゃないが私立大学は考えられない。県外の大学も、親に経済的負担をかけないでやっていくのは難しい(大学の学費等は一切親に出してもらうつもりはなかった)。そんなタイミングで地元に出来たのが社会福祉学部を備える県立大学だったのです。

続く

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